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伊奈氏と川口市


川口市 赤山城とは

赤山城(あかやまじょう)は、埼玉県川口市にあった城。
赤山陣屋とも表記される。埼玉県指定文化財(旧跡)。

江戸時代初期の1629年(寛永6年)に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城した。
以来十代163年間伊奈氏が居城したものである。

現在は堀跡などが残り、一部が公園として整備されている。
本丸と出丸の間には東京外環自動車道が建設されている。
また、城址の南端あたりには川口パーキングエリアが建設されている。
また、赤山城から3方向に赤山街道が整備され、現在も道路として残る路線も多い。
越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、竹ノ塚方面に向かう千住道がある。

赤山陣屋の模型が、赤山歴史自然公園内の資料館に展示されている。
(ウイキペディアより)

川口市 赤山城陣屋


赤山陣屋は、代官(通称 関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つ。
元和04年(1618)頃伊奈家3代忠治によって創建されたといわれています。

陣屋の構造は右図の通りで、約2万4千坪の広さがありました。
陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形(おやかた)・御役家(おやくけ)・御的場といった施設があり、
北側と西側は2重の堀でかこまれていました。
外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていました。
また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷がありました。
この屋敷は、堀の内に17、外に1あり、その他に門番屋敷などもありました。屋敷の規模で一番多かったのは一町前後のものです。

陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようでした。
社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺がありました。

なお、伊奈家は、寛政04年(1792)12代忠尊(ただたか)の時、幕府政治の変化と老中の騒動が原因で改易され、赤山陣屋も廃止されました。
このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっています。

平成31年03月31日
川口市教育委員会

伊奈氏家系図


1代目:伊奈忠次
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、譜代の臣・伊奈忠次に小室など1万3000石を与えた。
これが小室藩の立藩である。
忠次は大久保長安と並ぶ徳川家中における行政官僚であり、関東代官として徳川直轄領のうち100万石の実質的な行政を任されていた。
忠次は家康の期待に応えて伝馬制度、新田開発、治水工事、民政、農政に尽力し、家康が天下の覇権を掌握した後は家康の側近となって幕府初期の内治に大きな功績を挙げた。
また、忠次は大河内久綱(松平信綱の父)や坪井長勝など、多くの人材を育て上げている。
勘定方も勤めていた。
忠次は、埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来となっている。
忠次は慶長15年(1610年)6月に病死し、跡を嫡男の伊奈忠政が継いだ。
2代目:伊奈忠政
忠政は大坂の陣で戦功を挙げたが、元和4年(1618年)3月34歳で没した。
その跡を子の伊奈忠勝が継いだが、忠勝は翌年8月に9歳で夭折する。
当然、9歳の幼児に嗣子がいるはずもなく、伊奈家は無嗣断絶で改易となり、小室藩も廃藩となった。

3代目:伊奈忠治
武蔵小室藩主・伊奈忠次の次男。
兄・忠政が元和4年(1618年)に34歳で没した。
しかし忠政の嫡男・忠勝が8歳の幼少であったため、家督は忠勝が、関東代官職は27歳の忠治が継ぐこととなった。
関東代官となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山城を拝領していたため、
兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。

忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。
江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。
なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくば市真瀬にある。
また、合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。
忠治の業績
吉見領囲堤 - 元和年間(1615年〜1624年):武蔵国吉見領(現在の埼玉県比企郡吉見町)
中山道移設・大宮宿の形成 - 寛永5年(1628年):氷川参道西側に街道を付け替えて宿や家を街道沿いに移転させ、現在に至る大宮の町の基を創る。
荒川瀬替え - 寛永6年(1629年):武蔵国久下〜川島(現在の埼玉県熊谷市〜比企郡川島町)
見沼溜井、八丁堤 - 寛永6年(1629年)
鬼怒川・小貝川分流 - 寛永6年(1629年)〜寛永7年(1630年)
新綾瀬川開削 - 寛永7年(1630年):武蔵国内匠新田〜小菅(現在の東京都足立区)
江戸川開削 - 寛永12年(1635年):下総国関宿〜金杉(現在の千葉県野田市〜埼玉県北葛飾郡松伏町)
佐伯渠 - 寛永12年(1635年)
北河原用水 - 正保元年(1644年):武蔵国北河原(現在の埼玉県行田市)



「関東郡代伊奈氏の200年」年表







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