キリシタン迫害の経緯・元和キリシタン事件・江戸大殉教


キリシタン迫害の経緯


1549年8月15日
フランシスコザビエル来日 日本に対する布教の始まり。
約40年間クリスチャンは増え続け、20万人以上に増え続けます。

1587年
豊臣秀吉 バテレン追放令(キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書)発布

1597年2月5日(慶長元年12月19日)
豊臣秀吉の命令によって26人のカトリック信者が長崎で磔の刑に処されました。
日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてでした。
この出来事は「二十六聖人の殉教」と呼ばれます。


1606年
キリスト教徒が約75万人に達したとされています。(「キリスト教の2000年」より)

1612年慶長17年
徳川幕府は1回目の禁教令発布。
キリシタン大名の有馬晴信や筒井定次(筒井順慶の養子)は処刑されます。
駿府のキリシタン発覚の原因となった岡本大八とその息子は、安陪川畔(静岡市)で処刑されました。

慶長18年の禁教令頃から捕えられていたキリシタンは、江戸 浅草鳥越あたりの刑場で処刑され回向院に葬られていました。
1614年 (慶長19)
2代将軍・徳川秀忠は、2度目の「キリシタン禁令」と宣教師国外追放令を布告しました。
この頃から、京都にあったとされる慶長天主堂をはじめ、京の内外に散在していたキリシタン教会を焼き払わせるなど、急激なキリスト教の禁止が行われました。
1614年に高山右近は、日本からフィリピンへ脱出します。


1616年
「京都の大殉教」京都で52名の見せしめの処刑が行われます。
1616年に秀忠は最初の鎖国令である「二港制限令」(元和禁教令)を出し、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定します。
その中で下々にまでキリスト教の禁止を厳格に示しました。
以後、構築されていく鎖国体制が、宣教師の侵入を防ぐ側面を持つことで、潜入を試みていた宣教師も姿を消していくようになります。

1619年(元和5)
徳川秀忠の弾圧。
京都では63名の一般信者が捕らえられ、小川牢屋敷に投獄されました。
そのうち8名は、劣悪な収容環境のために獄中で死亡したといわれています。
10月6日 
小川牢屋敷の52名の信者たちは、9台の大八車に乗せられて、京都の大路を引き回され、処刑されました。
男子26名、女子26名でした。(妊婦1人、15歳未満11人も含まれていました。)
刑場には、徳川秀忠をはじめ、家臣や町人の見物者が大勢集まっていたそうです。
【京都の大殉教】

1620年
日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかります。平山常陳事件(ひらやまじょうちん)。
この件により、ますます不信感を強めた幕府は大弾圧へと進んんでゆきます。

1622年(元和8年)
「長崎の大殉教」かねてから捕えていた宣教師ら55名を長崎西坂にて処刑しました。
この事件は幕府のキリシタン弾圧の画期となり、各藩の徹底的な弾圧を促進していくことになりました。
この知らせはマニラにおける殉教熱をあおり、以後宣教師の決死的潜入が続出します。
1622年(元和8年)からは、長崎、平戸、東北、江戸で、同様の大量処刑が行われます。
これが「元和(げんな)の大殉教」です。
京都、江戸、長﨑の処刑は「三大殉教」と呼ばれています。

ウイキペディアより 元和大殉教図
1623年元和9年10月13日、 (12月4日)、
「江戸の大殉教」
捕らえられていた小伝馬町牢内のキリシタンは、
今日の室町―日本橋―京橋―銀座―新橋―浜松町―三田―芝口と引き回され、札の辻にてキリスト教信者50人が処刑されました(徳川実紀より)。
1623年には江戸で55名、
その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々もまきこんで この地で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。
これが江戸の大殉教です。

絵 江戸の大殉教

芝口札の辻での殉教者は次の通りです。
1624年(寛永元年)年6月12日 18人が処刑
1630年(寛永6年)年1月24日 1人が鋸刑(きょけい のこぎりの刑)。
1632年(寛永8年)年1月13日 6人が火刑、1人が斬首。
1639年(寛永15年)年1月6日 6人が磔刑、14人が斬首。
1640年(寛永17年)年5月2日 オゾリオ神父、バラハス神父、火刑。
フランシスコ会のベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父は寒河江(さがえ)で、フランシスコ・バラハス神父(孫七郎)は大籠で多くの人に宣教し、仙台で捕らえられました。

1624年
東北で108名、平戸で38名の公開処刑が行われました。
安陪川畔(静岡市)ででガスパル甚右衛門が斬首されました。

1629年(寛永6年)
1月12日
北山原(上杉藩の刑場)(新潟県)にて43人の米沢の信徒たちが殉教しました。
新潟県 糠山の飯田邸屋敷の庭にて女性や子ども7人が処刑されました。
新潟県 花沢 3人が処刑されました。

寒河江(山形県)の岸辺で7名が捕らえられ、棄教しないために処刑されました。

1631年(寛永8)
一本松塚キリシタン処刑場(愛知県 一宮市)にて、尾張藩により五十七名のキリシタンが捕らえられ、
4人が火焙りの極刑に処せられました。

安陪川畔(静岡市)で、5人のキリシタンが斬首されました。

1637年
「島原の乱」(天草・島原一揆)は歴史上最大の一揆であり、その直接原因は重税などでしたが、
 参加した人々がキリスト教を拠り所としていたことから、幕府に与えた衝撃は非常に大きいものでした。
乱の鎮圧後、さらに禁教と鎖国体制確立が加速していったのです。

http://inoues.net/club/akiduki/akiduki4.htmlより  島原の乱図屏風
1639年寛永16年
仙台伊達藩により、大籠で1639年から約3年ほどの間に、キリシタンの大量処刑がおこなわれました。
処刑された数は309名。そして今なおその処刑にまつわる史跡が、街道沿いに点在します。
「地蔵の辻」では2年にわたって178名が処刑されました。
「首実検石」
「上野処刑場」、「トキゾー沢処刑場」では12名が処刑されました


1614年~1643年
記録に残っているだけで3125人(うち71人がヨーロッパ人)処刑されました。

1657年明暦3年
禁教下においても、隠れてキリスト教の信仰を続けていた人々がおり、潜伏キリシタン発覚事件が起きました。
長崎奉行管轄の大村藩にて608人が検挙され、414人が処刑され 77人が獄死し 99人が転向しました。
打ち首になる者が多かったため、各地に分けて処刑することになりました。http://oratio.jp/p_burari/gokumonsyoatokarakubidukadoudukaheより
大村では131人、長崎123人、佐賀37人、平戸64人、島原56人とそれぞれの地で処刑されました。
これを「郡崩れ」と呼びます。


記録に残っていない殉教者は20~30万人と言われています。(新井白石『西洋紀聞』)

元和キリシタン遺跡(げんなきりしたんいせき)

東京都港区三田三丁目6番地に存在するキリスト教信者の殉教遺跡。
東京都の旧跡。

江戸初期の刑場で、最も賑わいのある東海道の江戸の正面入り口(芝口)で、小高い丘となっていたので多くの通行人に見せしめるための刑場として使用されました。
江戸城から一里半の東海道沿いの札の辻 (港区三田三丁目)(現在の田町駅付近)から 品川に至る山の斜面の東海道に沿った海の見える小高い丘にあります。

数度にわたる三代将軍家光のキリシタン磔刑場所として使用されたことは有名。
その後江戸の膨張に伴い承応三(1654)年ころ鈴ヶ森に移転し、明治4(1871)年まで刑場として使用され二十万人あまりが処刑されました。
かつて芝浦は遠浅の製塩の地であり遥か房総の山々がよく見えたという。

刑執行後、この地は長く不浄の地とされ、人びとが住まず、空地となっていましたが、約150年後の明和年間に智福寺が建てられました。
「智福寺開山一空上人略伝記」には、「この地が処刑地で長い間空地となっていたが、ここに寺を建てとることで罪人が浮かばれる」と考えたと書かれています。

1966年(昭和41年)に智福寺が練馬区に移転するまで、智福寺の境内でした。
刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、石碑が設置されています。
智福寺(現在の済海寺の下にあったとされる)が、練馬区に移転した後、都ホテル・都イン東京ホテルが建てられ、
その一角に小さな碑が建てられていました。

 ウイキペディアより

現在は、都ホテル跡地を再開発して2006年9月に住友不動産三田ツインビル西館(ラ・トゥール三田)が建てられました。

アクセス:JR線 田町駅 徒歩5分。都営 三田線・浅草線 三田駅 徒歩3分。


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