礼拝アーカイブス



10月の礼拝

10月29日


天一国食口礼拝


「 苦難の後に来る神様の祝福 」

「 天一国經典天聖經 第十一篇 礼式と名節 第一章 侍る礼法 第一節 侍る生活 P.1165 」

1これから、皆さんは、侍る生活をしなければなりません。今までは信じることによって救いを得る信仰生活をしましたが、これからは侍ることによって救いを得る時代です。本来、人間が堕落しなかったならば、神様に侍る道を行くのです。侍るときは、皆さんの生活と心で侍らなければなりません。皆さんがどこかに行くとき、必ず前には真のお父様が、後ろにはお母様がいることを感じなければならず、左右と上下には必ず天が共にあることを感じなければなりません。 統一教会員たちが何かの公的な責任を負い、任務を遂行するに当たって難関にぶつかり、独りでは解決できない問題があるときは、水を浴びて心身を清め、天のみ前に祈りながら問い掛ければ、教えてくれるようになっているのです。皆さんの心情の程度が、天の標準とする基準まで行っていないために教えてくれないのであって、その基準まで行けば教えてくれるようになっているのです。すべて のものを委ね、祈る気持ちをもってそこにぶつかれば、直感を通して自らの行く方向を提示してくれるようになっています。
2これからは、侍って暮らす侍義時代です。侍ることによって救いを得るのです。今までは蕩減によって救いを受けました。天に侍って暮らせる侍義時代に入らなければなりません。神の国がなければならないのです。イエス様は、国がなかったために追い出されたのです。皆さんも同じです。先生のみ言をつかんで、歩んでいかなければなりません。み言を否定するサタンの権勢はありません。神様を中心として、そのみ言と霊界と歩調を合わせ、実体的家庭ができていれば、その家庭を中心として、いくらでも拡張できるのです。家庭がないのに、国がどのようにしてできますか。私たちの家庭から私たちの氏族が生じ、私たちの氏族を中心として私たちの国が生じ、世界が自動的にできるのです。その版図が、祝福を受けた家庭を通して形成されるのです。


10月14日


自叙伝書写奉納伝授式

プラザウエスト 多目的ホール

陰徳を受けたときは、かならず、もっと大きくして返す (文鮮明師 自叙伝)

いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をし て〈れたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために苦労を惜しまず、陰德を施して くれた人たちを生涯忘れることができません。陰德を受けたときは、必ず、もっと大き〈して返すのが人の道です。
しかしその人に直接会えないこともあるでしよう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを 今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。


10月7日


東西埼玉教区 大運動会 が開催されました。
秋ヶ瀬三ツ池グランド

10月1日


天一国食口礼拝

主礼:蔡 東朴教会長
「 2020vision勝利の為の 還元祈願礼式・礼拝 」

「 天一国經典天聖經 第三篇 真の愛 第三章 真の愛の実践 第二節 真の愛の実践 P.342~343 」

6愛の道は、自分のために生きることではなく、自分を犠牲にすることです。愛する人の一言を聞けば、十年の苦労も克服できるのです。それは驚くべきことです。愛する夫や愛する妻と約束した一言を中心として、十年どころか一生の間も苦労できるのです。そして、その克服すべきすべての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であれば悲惨であるほど、約束した内容の愛は、より高い次元の立体的価値をもつようになるのです。
7夫が妻のために犠牲になる心をもつようになるとき、妻は絶対的なその犠牲の前に、相対になるために、ひたすら努力します。嫌いながら努力するのではなく、心から喜びながら努力するようになっています。ここには苦痛がありません。犠牲はありますが、その犠牲は不幸な犠牲ではなく、甘くて奇妙な味が漂うのです。父母が子女を愛するところには、犠牲が同伴します。犠牲になって代価を払いなさいというのではなく、忘れるのです。与えて忘れるのが愛を通した犠牲です。神様は、今まで万民のためにたくさんのものを与えて犠牲になってきましたが、与えたあとはその犠牲の代価を忘れてしまいま した。ですから、右の手がすることを左の手が知らないようにしなさいと言ったのです。何かをあげたのでこれを受けようと考える人は、愛の主人ではありません。与えて忘れる人が愛の中心者です。
8人間は、神様が願う愛の道を探していかなければなりません。悪魔が願う堕落の道を否定し、神様が願う愛の道を探していってこそ悪魔が分立されます。知識があるといって、教理をもっと知っているといって、能力があるからといって、知恵があるからといって分立されるのではありません。愛がなければなりません。キリスト教が今まで残っているのは、犠牲になってきたからです。血を流してきたので残ることができたのです。
9愛の道は、利用される道です。もっと大きな所に向かって利用される道なのです。個人は家庭に利用されようとし、家庭を引っ張って国のところに行って利用されようとする道です。また、国を引っ張っていって世界で利用されようとする道なのです。世界を引っ張っていって天地で利用されようとし、天地を引っ張っていって神様に利用されようとする道が真の愛の道です。



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