川口市の歴史



埼玉県川口市の歴史

旧石器時代

旧石器時代は、現在よりも海面が低く大陸と地続きでした。

川口市で発見された天神山遺跡は 1万8千年前のものです。


川口市には叺原遺跡(かますはらいせき)赤山遺跡など複数、旧石器時代の遺跡があります。


縄文時代


縄文時代、海面が上昇し(縄文海進)、川口市の多くの部分は海の中でした。
川口市内でも、大宮台地の先端部の台地の部分のみが陸地でした。
川口市内の海岸線沿いには、多くの貝塚が発見されています。
縄文時代 川口市・さいたま市南部の貝塚・遺跡の詳細

①②④⑤叺原遺跡(かますはらいせき) ③⑦⑩ト伝遺跡 ⑥木曽呂表遺跡 ⑧⑨石神貝塚

弥生時代

紀元前2世紀ごろから稲作が始まりました。
川口市でも多くの集落が発掘されています。
特に新郷地域で多く発見されています。

東本郷遺跡


石神貝塚出土の耳飾り


新郷貝塚出土の土偶


↓弥生時代後期の川口市と、その周辺の遺跡



新郷貝塚から発見された伸展葬
5体発掘された。

古墳時代

弥生時代が終わるころヤマト王権の勢力が次第に東方にも広がってきました。
川口は无邪志国(むさしのくに)の国造によって収められていました。
この頃川口でも複数のの古墳が作られました。
新郷では、高稲荷古墳(前方後円墳)が発見され、県南部ではもっとも古い古墳のひとつです。

高稲荷古墳 昭和35年頃撮影


古墳分布図



左上:新郷古墳出土 勾玉
左下:宮脇第2古墳出土 直刀 鉄鏃
右:新郷古墳出土 埴輪


飛鳥/奈良時代

この頃、无邪志国(むさしのくに)は、武蔵野国の国司によって治められていました。

平安時代・鎌倉時代


承平8年(938年)、皇族でもある源経基という武将が 武蔵国司として 赴任しました。
天慶年間に平将門が下総国岩井で乱を起こしたとき、源経基は、将門追討の勅命を受け、平将門の乱の平定に向かうものの、関東に到着した時には、既に将門が追討された事を知り帰京しました。



川口市峯にある峯ヶ岡八幡神社(谷古田八幡宮)は、源経基の創建と伝えられます。
前九年の役(1051-1062奥州安倍氏の乱)の際には、源頼義、義家父子が必勝祈願をしたとされ
又後三年の役(1083-1087奥州清原氏の乱)の際にも源義家・義光の兄弟が必勝を祈願したとされています。

治承4 年(1180)、源義経が兄頼朝の挙兵に加わるため、奥州から鎌倉に向かう途中、武蔵国足立郡小川口(現在の川口)で兵をあらためたことと記されています。(義経記)

https://kaidouarukitabi.com/
rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/
kamakurauemichi1.htmlより

鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網は鎌倉街道と呼ばれています。
鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道です。
その3本の道のうち中間の中道が、川口を通っており、荒川寄りの小流にかけられていた橋は、鎌倉橋の碑に名をとどめています。


室町時代・戦国時代

川口市大字安行吉岡にある金剛寺は、室町時代の中頃、明応五年(1496)に、当時この地方を支配していた豪族 中田安斎入道安行(やすゆき)により開創されました。(安行という地名はここからきたと言われています。


室町時代末期、川口周辺は岩付太田氏の支配下にありました。
関東地方を支配していたや北条氏と戦うことになります。

太田氏の家臣、中田安斎入道安行の息子吉岡将監督という人物が安行吉岡に陣を構えていました。

平柳蔵人(ひらやなぎくろうど)(太田氏の家臣で、元郷に館を構えていた)は、北条氏康軍との戦いに破れました。
元郷の正覚寺は平柳蔵人(ひらやなぎくろうど)の開基。ここに墓地があったとされています。
領家の実相寺は、平柳蔵人(ひらやなぎくろうど)の過去帳が残されていると言われています。
元郷4丁目に平柳蔵人(ひらやなぎくろうど)の館跡の碑があります。
南平地区の地名は平柳蔵人(ひらやなぎくろうど)が由来とされています。

「市場之祭文」(中世祭祀〔さいし〕に使用された祈願文の一種)
には、市祭が行われた武蔵国東部から下総国西部の地に所在した33か所の市場が挙げられています。
それらの市場は、主に埼玉県中南部に集中しており、青木・鳩ケ谷・大門・蕨・与野も、名を連ねています。
物の売り買いが盛んにおこなわれていたことが分かります。


http://yashio-rekinavi.com/reki-navi/index.
php?title=%E5%B8%82%E5%A0%B4%E4%
B9%8B%E7%A5%AD%E6%96%87より

江戸時代 元和キリシタン事件と川口市

元和元年(1623)7月、三代将軍となった家光は、江戸のキリシタンの一斉検挙を始めました。
これが「元和キリシタン殉教事件」です。
この元和の殉教では、まず同年10月13日に宣教師や信徒ら50人が江戸高輪(現:港区)で火刑に処せられました。
次いで11月3日には先に殉教した信徒達の夫人や子供達が難にあいました。
この信徒の中にレオ竹子屋権七郎がいて、その妻が芝の代官熊沢忠勝の娘であったことから、
長徳寺住職(鎌倉建長寺派)・龍派禅珠(りゅうはぜんじゅ・号 寒松)が助命に乗り出しました。
この模様は、龍派の著した『寒松日歴』(寒松日記:県指定文化財)に日を追って記されています。
この娘は龍派の巧あって助命されました。
忠勝は処刑された人たちを供養するため万蔵寺を建立しました。
権七郎が信仰していた阿弥陀像を厨子に納めました。
万蔵寺は、江戸時代末期に消失したので、厨子は芝の塚越の如意輪観音堂に移してまつられたと伝えられています。
この阿弥陀像を見ると目がつぶれるという言い伝えがあり、長年この厨子をあける人はいませんでしたが、
1956年昭和31年この阿弥陀如来坐像の体内から聖母子像とキリストの十字架が発見されました。


阿弥陀如来と胎内マリヤ観音(「新編埼玉県史 通史編3」 より)
像は埼玉県立博物館(さいたま市大宮区高鼻町4-219)へ寄託
キリスト教迫害の経緯・元和キリシタン事件/ 江戸の大殉教

江戸時代

江戸時代に入るとほとんどが幕府直轄地とされ、関東郡代の伊奈氏の支配下となります。
伊奈氏は徳川氏の関東支配の基礎を築くのに大きく貢献し、特に土木工事技術にはすぐれたものがあったと言われています。伊奈氏と川口市 赤山城
河川の改修、用水路(見沼代用水等)の建設等数々の実績をあげています。

伊奈氏は、江戸時代の初めに川口市の神根にある赤山に陣屋を置き、支配しますが、18世紀終わりの時期の幕府全体の地方支配機構の見直し(現在の行政改革みたいなもの)の波を受け、改易(とり潰し)となってしまいます。

釣竿、味噌醸造など製造も活気をおびてきました。
その中でも鋳物業は、大消費地「江戸」に近いということで、鍋、釜などの日用品の製造が急激に伸びていきます。


市内を南北に貫く日光御成道は、徳川家康の霊廟を日光に移した元和3 年(1617)以降整備され、
川口には将軍の日光社参に伴う休憩所(錫杖寺)や駅逓業務を行う問屋場がおかれました。
現在の川口の中心は『川口宿』と呼ばれ、日光御成街道の宿場町として栄えました。

現在の川口市の地域には、51の村があったといわれています。

享保13年(1728)の見沼代用水路の開さくによる舟運・陸上交通の整備に伴って商品の流通が盛んになり、
今日の川口の発展の基となる種々の産業が興りました。
見沼溜井や見沼代用水、赤堀用水などの灌漑治水によって農業が一層発展しました。
鋳物産業は、江戸中期以降は技術の確かさと江戸町民の需要増大によりますます盛んとなました。


承応年間(1652~1654)に安行の吉田権之丞によって始められたという植木や苗木の栽培は、
明暦3年(1657)の江戸大火によって焼野原となった江戸へ、植木や草花を供給して以来発展しました。

幕末期

幕末期には、織物・釣竿が江戸を中心に商品として進出するようになりました。
当時の川口町は、今の本町1 丁目と金山町を中心に300 戸ほどの家が集まっただけの小さな町で、
現在賑やかな川口駅前や栄町・幸町付近は見わたす限りの田畑や湿地帯であったといわれています。

幕末には軍事産業として兵器製造が行われていました。

明治時代

明治末期には鋳物工場が150 軒ほどになり、荒川や芝川の舟運を利用して原料や製品運搬が行われました。
その後、
明治2年の版籍奉還により、大宮県に属し、そして浦和県となりました。
明治4年廃藩置県により、埼玉県に属しました。
明治7年に『川口宿』から『川口町』となりました。
明治20年代に日本鉄道会社が上野ー前橋間が開業し、明治43年に『川口町駅』が開業しました。
この鉄道の開通が川口の産業の発展につながりました。
川口町駅や新荒川大橋ができると鋳物産業を中心に飛躍的発展をとげ、「鋳物の街川口」の名は全国に知られるようになりました。
安行の植木も生産農家も発展しました。


昭和時代

昭和8年4月1日に、川口町・横曽根村・南平柳村・青木村の1 町3 村が合併し、『川口市』が誕生しました。
当時の人口は、45,573人で現在の川口市の人口の10分の1でした。
昭和15 年には、芝村・神根村・新郷村の3 村を合併。
更に昭和31 年に安行村、
昭和37 年に美園村の一部であった戸塚を合併しました。

平成時代

平成23 年10 月11 日、人口約6 万人、面積6.22平方キロメートルの鳩ヶ谷市と合併し、
人口約58 万人、面積約62 平方キロメートルとなった新川口市がスタートしました。
平成30 年4 月1日に中核市へ移行しました。


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